INICIAR SESIÓN先に我に返ったのは一条だった。 陽菜の肩を抱いたまま、人通りの邪魔にならない場所まで連れていくと、低い声で問いかける。「藤野、大丈夫か? ……かなり驚いただろ」「あ……ご、ごめんなさい、一条君……」 陽菜は数拍遅れて現実へ戻ってきたように、小さく息を呑んだ。 顔色は白い。 驚きで心臓が激しく脈打っているせいか、自分がまだ一条の腕の中にいることにも気づいていなかった。 一条はそのことに気づいていた。気づいていて、すぐには離せなかった。 ようやく陽菜の呼吸が落ち着き、耳が理由もなくうっすら赤く染まり始めた頃、一条は名残惜しさを押し隠すように、ようやく腕を離した。 まるで、自分はただ心配しただけだと言い聞かせるみたいに。「藤野、今日なんか様子おかしくないか。……体調悪い?」 そう言いながら、一条はごく自然な仕草で陽菜の額へ手を伸ばした。 陽菜は一瞬、呼吸を忘れたように動きを止める。 触れた掌は思ったよりずっと温かくて、その熱がじわりと肌へ伝わってきた。 心臓が大きく跳ねる。 一条はすぐに手を離したものの、そのまま今度は自分の額へ同じ手の甲を当て、温度を確かめるように比べ始めた。 次の瞬間、彼の眉がわずかに寄る。 軽い調子ばかりだった表情から笑みが薄れ、声音にも少しだけ緊張が混じった。「……やっぱり、ちょっと熱ある気がする」「ち、違うんです。一条君。少し考え事してて、ぼーっとしてただけで……」「……念のため、帰ったら熱測れよ」 一条は珍しく真面目な口調で言った。「家に体温計あるよな?」 陽菜が困ったように首を横へ振る。 すると一条は呆れたように笑いながら、家に置かれている救急箱の場所を説明した。 それから、ふっと口元を緩める。「今度ちゃんと家の中も把握させないとな。……藤野、そういうの全然知らなさそうだし」* 家へ戻ったあと、陽菜は一条に言われた通り、素直に救急箱から体温計を探し出した。 測ってみると、結果は平熱。 どうやら一条が心配しすぎただけらしい。 陽菜は苦笑しながら、その写真を撮って一条へ送った。 すぐに返ってきたのは、『ならよかった』という短い返信。それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。 ここまで真っ直ぐに気にかけられることに、陽菜はまだ慣れていなかった。 申し訳なさもある。 けれど同時に
ビニール袋の中に大事そうに入れられたままのいちご飴を見つめていると、陽菜の胸の奥に、またあの妙な感覚がじわりと浮かび上がってきた。 言葉にできない違和感。 ざわざわと、心臓のあたりを落ち着かなくさせる感覚。 陽菜は無意識に胸元へ手を添える。 顔を上げると、一条が余裕たっぷりにこちらを眺めながら笑っていた。 その表情を見た瞬間、違和感はさらに強くなる。「あ、ありがとうございます……一条君……」「工場見に行く途中でショッピングモール通ったんだよ。もしかしてあるかもと思って寄ってみたら、ほんとに売っててさ。ラッキーだった」「工場……そういえば、一条君、朝から新しい工場を見に行ってたんですよね。どうでしたか?」「ああ。凌に紹介してもらったところな。全体的にはかなりいい感じだった。あとはサンプルの品質次第かな。問題なければ、できれば早めに決めたい」 鷹宮の名前が出た瞬間、陽菜の胸が小さく揺れた。 表情に出ないよう気をつけながら、できるだけ自然を装って尋ねる。「……鷹宮さんが紹介してくださったんですか?」「そうそう。朝いきなり連絡来てさ。工場だけじゃなくて、見学の予約まで勝手に取ってくれてた。ほんと、他人の仕事にまで全力なんだよな、あいつ。だから仕事人間って言われるんだよ」 一条はまったく悪気なく笑っていた。 鷹宮が陽菜へ返事をしていないことなど、知らないのだ。 だからこそ、隠し事のない声音で、朝に鷹宮から電話があったことをそのまま口にする。 陽菜は自分でも説明できない感情を胸の奥に押し込みながら、表面上は小さく笑った。けれど、それ以上その場にいるのが苦しくなってしまう。 適当に理由をつけ、一条のオフィスをあとにした。 そのまま、いちご飴を持って休憩室へ向かう。 幸い、中には誰もいなかった。 本当は、食欲なんてほとんどなかった。 けれど、一条に「早めに食べろ」と何度も念を押されたことを思い出し、陽菜は袋の中からいちご飴をそっと取り出す。いちご飴の表面を覆う透明な飴が、照明を受けてきらりと光る。近づけるだけで、砂糖の甘い香りがふわりと漂う。 そっと一口かじる。 外側の飴は驚くほど薄く、ぱりん、と小気味いい音を立てて砕けた。 中のいちごも甘い。 酸味はほとんどなく、果汁がじゅわりと広がる。 なのに。 テーブルに置いたスマ
この日の夜、一条は自分でもおかしいと思っていた。 これまでずっと上手く隠してきたはずの言葉が、今夜に限って次々と零れてしまう。 もう抑えきれなくなってしまったみたいに。心の奥に隠していた本音を、一句ずつ陽菜へ曝け出してしまっていた。 こんなふうに気持ちをぶつけても、陽菜を困らせるだけだ。 そんなこと、一条自身が誰より分かっている。 分かっているのに……止められなかった。「……俺なら、絶対にお前をあんなふうに言わせたりしないし、嫌な思いだって、絶対させない」 胸の奥では、何度も「やめろ」と自分に言い聞かせていた。 鷹宮は、自分にとって世界で一番大切な友人だ。 失いたくない存在で、誰よりも大事にしてきた相手。 そんな男から、奪いたいと思ってしまうなんて。 ――最低だ。 一条は、自嘲するように唇を歪めた。「ご、ごめんなさい……一条君……」 陽菜は怯えたように肩を小さく震わせ、視線を落とした。困ったように自分の足元を見つめたまま、一条の顔を見ようとしない。 触れれば壊れてしまいそうな、甘く張り詰めた空気。 けれど、その空気はそこで途切れた。 一条は小さく息をつき、諦めたように笑う。 これ以上、陽菜を困らせたくなかった。 ――いや。 本当は、自分自身が耐えられなくなりそうだったのかもしれない。だから彼は、わざと何でもないような顔を作ると、意図的に話題を変えた。「藤野。いちご串、食べたくない?」「えっ? いちご……串?」 あまりに急な話題転換に、陽菜はすぐ反応できない。「最近流行ってるらしいぞ。結構みんな買ってる」 一条の視線の先を辿ると、少し離れた場所にいる女子高生二人組が、いちご飴を手に笑っていた。 陽菜は思わずくすっと笑う。「一条君。それ、いちご串じゃなくて、いちご飴ですよ」 一条は数度ぱちりと瞬きをして、それからおかしそうに笑った。「へえ。ちゃんとそんな名前だったんだな」 本当に知らなかったのか。 それとも、わざと知らないふりをして、陽菜を笑わせようとしたのか。 その答えは、きっと本人にしか分からない。 一条にとっては、理由なんてどうでもよかった。陽菜が少しでも笑ってくれるなら。 それだけで、十分だった。* その日の夜、結局鷹宮から連絡は来なかった。 陽菜が寝る前に何度も迷った末に送った「おや
柔らかな風がまた二人の間を通り抜ける。 今度は、陽菜はすぐに両手を閉じた。宝物を守るみたいに、花びらを逃がさないよう大事に握り込む。 そんな様子を見て、一条は小さく笑った。 彼はそれ以上、さっきの話題には触れなかった。代わりに視線を公園の奥へ向ける。「藤野。あっち、池があるみたいだな。行ってみる?」「はい」 二人は公園の石畳の道を並んで歩きながら、ゆっくり奥へ進んでいく。 途中、楽しそうに笑い合う高校生たちのグループとすれ違った。 一条はその制服へ何気なく視線を向ける。そして、どこか懐かしむように目を細め、不意に口を開いた。「うちの高校の制服も、あれに近い色だったよな。……俺、結構好きだった。凌は『目立ちすぎる』って言ってたけど。あいつ、もっと暗い色のほうが好きだから」 青みがかったブレザーに、深い赤のチェック柄。 確かに少し似ている。 陽菜は目を細めて微笑んだ。「私も……結構好きでした」「だろ?一年の自己紹介の時、制服が可愛かったから選びました”て言ってるやつ、結構いたし」「一年生の時……一条君は、家が近いからって言ってましたよね」 その言葉に、一条は少し驚いたように目を見開いた。「……覚えてたのか?」「えっ……だって、一条君が一番最初に立ったので。だから印象に残ってて……」 そう言いながら、陽菜自身も少し驚いていた。 まさか、自分がそんな細かいことまで覚えているなんて思わなかったから。 高校時代の記憶には、不思議なくらい、こういう小さな場面がたくさん残っている。 一条だけじゃない。 他のクラスメイトの自己紹介だって、いくつかまだ覚えていた。 その話題が楽しかったのか、一条は興味深そうに笑う。「藤野。他には?俺のこと、何覚えてる?」「一条君のこと……」 いつの間にか、二人の歩く速度はゆっくりになっていた。 笑いながら駆けていく高校生たちが、二人を追い越して前へ行く。その制服姿を眺めながら、陽菜は静かに口を開いた。「一条君は、いつも鷹宮さんと一緒にいて……それから、よく……」「よく?」 本人を前に高校時代の話をすると、どうしても思い出してしまう。 あの頃、自分が抱えていた片想い。 そして、一条にそれを見抜かれていたことも。 昔から胸の奥にあった疑問が、不意に口をついた。「一条君は……いつ、私が
不意に一条と視線がぶつかり、陽菜は一瞬息を呑んだ。 心臓をそっと叩かれたみたいに、胸の奥が小さく揺れる。そこから広がっていく妙な感覚に、なぜか少しだけ苦しくなった。 これはいったい、どんな感情なのだろう。 自分でも分からないまま、陽菜はどこか落ち着かなくなって視線を伏せる。「一条君……この公園、綺麗ですね」 一条は小さく笑った。 彼には、そんな陽菜の反応が少し照れているようにも見えた。「へえ。地面もそんなに綺麗だった?藤野、下ばかり見てたら、いいもの見逃すぞ」 軽くからかうように言ってから、一条はふいに陽菜へ手を差し出した。彼の掌には、いつの間にか舞い落ちてきた桜の花びらが一枚乗っていた。 改めて見ると、一条の手は大きい。 そのせいで、薄く小さな花びらが掌の真ん中でぽつんと取り残されているように見えて、少し可愛かった。 一条はそのまま掌を開き、陽菜へ見せる。 陽菜は意味が分からず、しばらく花びらを見つめてから、一条を見上げた。 一条はずっと口元に笑みを浮かべている。 とても機嫌が良さそうだった。「藤野。花、あげる」「……花びら、ですか?」 一条は時々、本当に何を考えているのか分からない。 それでも陽菜は、そっと彼の掌から花びらを摘み上げ、自分の手の中へ大事そうに乗せた。 まるで本当に花束でも受け取ったみたいに。「ありがとうございます、一条君。綺麗な花びらですね」 一条は目を少し見開いたあと、堪えきれなかったように吹き出した。 笑った拍子に、耳までうっすら赤くなっている。 柔らかく細められた眼差しには、隠しきれないほどの好意が滲んでいた。「藤野ってさ……花びら一枚でそんなに嬉しそうにできるんだな」「だって、一条君がくれたものですし。もしかしたら特別な花びらかもしれませんよ?」 陽菜がふわりと微笑んだ、その瞬間だった。 春風が、二人の間をすり抜ける。 掌に乗せていた桜の花びらは、ひらりと空へ舞い上がり、そのまま風にさらわれるように遠くへ流れていった。「あっ……」 陽菜は慌てて手を伸ばしたが、風のほうがずっと速い。 結局、花びらを捕まえることはできなかった。 振り返ると、一条はまだ楽しそうに笑っていた。 目を細めるほどに。 その顔を見た瞬間、陽菜の頬が熱くなる。 何か言い訳をしようとしたところで、一
一条の言葉は、遠回しでありながらも、明らかに鷹宮の母親を指していた。 その瞬間、鷹宮の母親の顔色がさっと変わる。震える指先を一条へ向けたまま、唇を戦慄かせ、言葉を失っていた。「お母さん、落ち着いて。そんなに興奮しないで……深呼吸して」 あまりにも激しく取り乱した母を見て、鷹宮はすぐにその傍へ歩み寄り、支えるように肩へ手を添えた。耳元で低く声をかけ、静かに宥める。 どれほど理不尽なことを言われても、彼にとっては母親だ。 こんなふうに取り乱す姿を見れば、放っておけないのだろう。「……ごめん、修司。陽菜さんも。先に母を連れて帰るよ。二人とも……気をつけて帰って」 母親を気遣うように前へ立ちながら、それでも鷹宮の視線は一瞬だけ陽菜へ向けられた。 何か言いたげに揺れたその目は、けれど結局何も告げないまま伏せられる。 短い別れの言葉だけを残し、彼は母親を連れて通りへ向かっていった。タクシーを拾うつもりなのだろう。 あとには、一条と陽菜だけが残された。 陽菜はずっと黙ったままだった。 その沈黙が気になったのか、一条がわずかに振り返る。「藤野? 大丈夫か?」「あ……一条くん、私は平気です。ただ……その……」 言いかけて、陽菜は言葉を止めた。 自分でも何を言いたいのかわからないように、小さく視線を彷徨わせる。「ただ」が何度も唇の上で途切れ、最後には力なく俯いた。「……私、やっぱり鷹宮さんと一緒にいないほうが、いいのかな」 あまりにも沈んだ声だった。 一条も、さすがに笑えなかった。 しばらく道路を流れていく車の灯りを眺め、それから困ったように息をつく。「……凌のお袋、昔からああいう性格なんだよ。正直、凌と一緒にいるのは……楽じゃないと思う」 陽菜は小さく頷いた。「鷹宮さんの……前の恋人も、やっぱりそうやって離れていったんですか?」「え……」 不意に前の婚約者の話を振られ、一条はわずかに目を瞬かせた。 秘密というほどではない。 だが、どう説明すればいいのか分からなかった。 鷹宮の前の恋愛は、理由を一言で片づけられるようなものではなかったからだ。 一条自身、完全に理解しているわけではない。 けれど少なくとも――母親が原因ではなかった。「……いや。前の相手に関しては、母親は別に反対してなかった」「……そうなんですね」 陽
そのあと、二人がそれぞれ休む支度をするまでの間、鷹宮は花瓶のことも白椿のことも、もう一度も口にすることはなかった。 今日は帰宅が早かったこともあり、鷹宮はソファに腰を下ろして、届いたばかりの最新の経済雑誌をゆっくり読み終えた。それからようやく、陽菜に見守られながら薬を飲む。「もう休んだほうがいいよ、陽菜さん。おやすみ」「おやすみなさい、鷹宮さん」 そう言葉を交わして陽菜が自分の部屋へ戻ったあとも、リビングの灯りはまだ消えていなかった。 扉越しにそっと覗くと、鷹宮は相変わらずソファに静かに座ったまま、手元の仕事の資料に目を落としている。 部屋の明かりの中で、その横顔だけが静かに浮
月乃にそう言われてしまえば、陽菜には断ることができなかった。 もともと気の弱い性格だ。たとえ月乃に引き止められなくても、こんなふうに泣いている彼女を置いて立ち去ることなど、できるはずがない。 「話して、月乃ちゃん。ちゃんと聞くから」 「うぅ……」 陽菜の言葉を聞くと、月乃の泣き声は少しだけ小さくなった。陽菜が差し出したティッシュを受け取り、顔の涙をそっと拭う。 だが、ティッシュに滲んだアイシャドウを見た瞬間、慌てたようにバッグから鏡と化粧ポーチを取り出した。 すすり泣く声を漏らしながらも、手元は驚くほど真剣だ。器用に崩れたメイクを直し始める。 その様子に、陽菜は思わず目を丸く
陽菜はわずかに口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。 記憶の中の月乃は、服装も話し方も、もっとおとなしくて柔らかな印象だった。 だが今、目の前にいる月乃は、身なりも言葉遣いも、高校の頃よりずっと刺々しい。変わりようがあまりにも大きくて、陽菜は目の前の彼女と、記憶の中の月乃をうまく重ねることができなかった。 この瞬間、陽菜は今日この約束を受けてしまったことを、心の底から後悔していた。 本当なら、もっと大事なことがあるはずだった。 母に電話をかけて、事件の深刻さをきちんと伝えなければならない。 立花先輩からのメッセージにも、早く返事をしなければならなかった。あまり長く待た
一条は迷いなく言い切った。 東和キャピタルとはそういう存在だと、最初から決めつけているかのように。 陽菜彼が本気で怒っている姿を初めて見た気がした。さきほどまで自分をからかっていた態度とは、まるで別人だった。 長いあいだ、陽菜は一条に嫌われているのだと、勝手に思い込んでいた。鷹宮のそばにいる自分を、内心では軽蔑しているのではないか、と。 けれど、今の彼の怒りを目の当たりにして、はじめて気づく。 あれは決して本気の敵意ではなかったのだと。 少なくとも、自分に向けられていたものは、ずっと穏やかな部類だったのだと。 「修司……もしかしてまだ樹くんのことで怒って……」 鷹宮は小さ







